2017年1月2日月曜日

詩集「コネコのコゴト」 「子供」編

詩集「コネコのコゴト」とは
作家パセリによる2005年から2017年現在までの12年間
ホームページ上で掲載されたコラムです (現在も連載中)


素晴らしい朝

 毎朝みる障害者がもし その障害を原因不明な理由から克服したのなら
 素直に喜びを感じることの出来た瞬間に 世界は素晴らしい
 そのように感じることの出来たあなたも素晴らしい
 目の見えなかった人が、見えるようになれたとしても
 必ずしも 幸せとはいえないとか
 歩けなかったひとが
 急に歩けたからといって 幸せとは言えないとか
 そのように感じることのできたあなたも素晴らしい
 それが 朝なら 素晴らしい



親と子

 障害児がなぜ健常者の子どもよりも

 明るく 生き生きした表情をしているのか 

 彼らの親が 一生懸命 大切な命に
 尋常ではない 愛情を注いでいるからに違いない 

 彼らはちゃんとわかっている 自分の苦しみも含めて
 いやいや 医学的 社会的 な根拠しかないとおっしゃる方々は
 むしろ 心の障害を抱えていらっしゃる に違いない



手をつなぐ

 子が手をつなぐ光景をみた
 ある親は 子供が道路に飛び出さないように子供の手を縛っているように見え
 ある親は 子供と手をつないでいたいから手をつないでいるように見えた
 どちらも 親が手をつなぐことを要求していたので
 子供はすぐに手を離したがった
 子供から手をつなぐことを要求されない限り
 大人は手をつないでやってはいけない
 子供のごく初期の時代を除いては
 

詩集「コネコのコゴト」 「教えられたこと」編

詩集「コネコのコゴト」とは
作家パセリによる2005年から2017年現在までの12年間
ホームページ上で掲載されたコラムです (現在も連載中)

絶望 イコール 苦悩 マイナス 意味

 東京大学先端科学技術研究センター

 福島智教授がテレビで興味深いことをいっていた

 ヴィクトール・エミール・フランクルの言葉で

 絶望=苦悩意味

 という方程式

 意味という項が0であれば苦悩はそのまま絶望になってしまうが

 苦悩と対等 またはそれ以上の意味を見出すことが出来れば

 絶望はなくなるというものである
 
 言い換えれば 意味のない苦悩が絶望である
 
 この式の面白いことに右辺の「意味」の項を左辺に移項すると

 絶望+意味= 苦悩

 となり 絶望に何らかの意味を付けてしまうと苦悩になる

 とも解釈できる
 
 代数と哲学は一緒にはできないが

 何か生きるヒントをもらえたような気がした







吉本隆明の「表現とその相互作用」 そして「沈黙の建築」について

 
NHKで放映された吉本隆明の講演会のなかから興味深い一文を取り上げたい


以下 引用
「表現って何かというと これは いってみれば自然と自分との あるいは 広く言えば 自然と人間とのどうしてもそれなくしては成り立たない つまり交通路というのが表現なんだと
そうすると人間がある表現をすると必ず自然は 表現しただけ変化します
これは誰でも同じことですし 精神的な労働であろうと 肉体的な労働であろうと あるいは学者さんのようにもっぱら考えること それから述べることをする そういう仕事であろうと そういう風に自分が何かを表現すると必ず表現した自分も同時に自然のほうから逆に表現されてしまいます
つまり どんな学者さんがものを考えているだけで机に座ってものを考えているだけでとか 実験をしてものを考えているだけとか 科学者の人とかそういう人とも それをやっていくと自然に科学的な人間になったり 文化的な人間になったりしているわけです
この変化は要するに何かといいますと自然との相互作用なわけですよ
つまり自然に人間が何かを加えようとすると 必ず加えようとしただけ 加えようとしたように人間に 人間のほうも逆に変化させられるわけです
あるいは変化するわけです
だからそこのところはとても重要なもんですから 人間と自然との間では要するにあらゆる自分のやったこと いったこと それから考えたこと それらがみんな人に伝わっていないようにみえて 勝手な片言を言っているようにみえても 自分も同様に変化し そして同時にまた自然をも変化させてるんだよという そういう相互関係は付きまとうわけです・・・」
引用 ここまで

また 吉本隆明の若い頃の自費出版の詩集「固有時との対話」のなかで


以下 引用
「わたしは わたしの沈黙が通うみちを長い長い間  索していた
 
・・・
(中略)・・・

わたしが言うべくして秘めてきた たくさんの言葉が
いまは沈黙の建築をつくりあげている」
引用 ここまで


私にとってこの言葉は とても大きな意味をもつようになった
なぜなら 現実の社会がおかしいと考えながら
沈黙の建築
を黙々と築き上げてきた人々にとっての社会に対する表現への
大きなきっかけを与えてくれる言葉
として自然と人間との相互作用と変革を提示してくれているからである
 
また吉本隆明は芸術言語論という概念の中で以下のように表現を二分する 
自己表出:たとえば花をみてきれいだなという独り言のような表現で人とのコミュニケーションのために発する表現ではないもので 自分との対話的なもの
指示表出:その花はきれいだね と人に伝えるためのコミュニケーションとしての表現
そして 沈黙の建築は前者に含まれるし ある意味 後者にも含まれる


 

詩集「コネコのコゴト」 「自分」編

詩集「コネコのコゴト」とは
作家パセリによる2005年から2017年現在までの十一年間
ホームページ上で掲載されたコラムです (現在も連載中)



(たこ)

 「昔 バイト先の佐藤さん から言われたことがある 
 
 あんたは 糸が切れた凧のよう 風に身を任せ いつまでプラプラしてる?
 そのときは それでいいと思ってた
 だけど今は 違うような気がする
 糸が切れた凧ならば
 自分の行きたいところにさえ行けないことに気がついた
 だけど 勘違いしてはいけない
 しっかり大地に根を下ろしても
 根ががっちりしすぎて
 行きたいところには行けないだろう
 だから わたしは凧の糸を切るわけにはいかない
 どこまでも高く
 糸を伸ばし続けなければならない




ハートキー

 私たちの閉ざされた心を開ける
「鍵」
 は 誰かが持っているかもしれない

 それは 恋人 家族か?
 
 それは 自分の中にあるかもしれない

 宝箱を開けるための鍵が宝箱の中にあっても

 開けられないわけじゃない

 また それはどこにも無いのかもしれない

 そんなもの 最初からないこともある

 たまに 心を開け放って
 「心の換気」
 をしたいときがある
     
 僕は鍵をどこかになくしてしまったようだ





カーテンのない部屋

 自意識過剰な人間には
 カーテンの無い窓張りの居室で十分
 カーテンなんてあっても無くても
 誰かの目を気にしているのだから





(ツガイ)

 道端で餌をついばむ一羽のスズメ
 一生懸命 羽を繕っているところに
 もう一羽 その子の傍にやってきた
 番か?
 後から 舞い降りたスズメは
 そのスズメが好きなのかな?
 勇気を振り絞って飛んできたのか・・・ 
 
 そうか
 
 
 長らく 人の傍に自らの意思と無関係に近寄っていない

 多忙な毎日 多くの人々と接する機会が多いにもかかわらず

 私は 人に近寄っていない 自らの意思で 
 スズメのように 自然に そして華麗に近寄る方法を忘れてしまった
 自分のことがいっとき スズメより臆病な動物に思えるときがある






自分から逃げるためのいろいろな方法
 
 ある社会や環境 組織から逃げたくなったのなら
 
 まだ逃げ場所はたくさんあるし
 その組織や環境から離れればそれで済む 

 だけれど自分が自分に本気で厭
(いや)になって
  
 自分から逃げたくなったのならば 

 努力などをして自分を高める方法がひとつの手段になるけれど
 それでも そんな気力がないときは
 自殺という手段がとられる時がある

 
  社会から逃げるために自殺するのか
 
 自分に厭(いや)になって 自分から逃げるために自殺するのか


 原因が後者であるならば その人を救うことは なかなか難しい
 
 
 しかし 歳をとるほど 自分が厭になって それでも生きていけるのは
 半分 あきらめているから
 しょうがない は ときどき 人を救う





リセット睡眠
 睡眠は しょうもない自分 を忘れるチャンス
 長く起きていると 自分の しょうもなさ に嫌気がさしてくる











詩集「コネコのコゴト」 「アート」編

詩集「コネコのコゴト」とは
作家パセリによる2005年から2017年現在までの十一年間
ホームページ上で掲載されたコラムです (現在も連載中)


ある種の傑作

 ある種の傑作は必然の中の偶然から生まれる
 そして傑作とは

 傑作とは偶然が生み出した事故である






白けるアート

 感情移入しすぎたアートが白けるように
 感情移入をわざと抑えた無表情なアートも
 同じ理由から白けてしまう



成長前夜
 ある種のアーティストは自分の作品がクソだと思ったときにこそ
 次への成長の準備ができている



感じる心
 いかに多くを見るか 聴くかよりも
 いかに多くを感じることができるか
 感じることができる心を養うことは
 教育の大切な方向性のひとつ



音楽とは

 みんな同じことをしないで
 
 みんなで同じことをすること

詩集「コネコのコゴト」 「真実」編

詩集「コネコのコゴト」とは
作家パセリによる2005年から2017年現在までの十一年間
ホームページ上で掲載されたコラムです (現在も連載中)

ストレスレス

 世界があなたを喜ばせるためだけに存在したとするなら
 寒気がするくらいの不自然さと 苛立ちをおぼえないか?
 だからこそ そこら辺に転がる軽度の不遇に出会ったとしても
 ストレスを感じるどころか 世の中の正常性を喜ぶべきだ


重い尻
 すべての正しい行動の前では
 遂行されない どんなに立派なご意見 も

 頭の中で考えている 高尚な理想 も

 行動しないための正当な大人らしい理由 も
 無意味で非力

 その重い尻を浮かせ 立ち上がるときは 今しかない



内外
 自分ができない原因を
 
 外に求めるか
 
 内に求めるか
 
 人徳はその辺で決まる


正直で嘘つき

 人には嘘がつけても自分には嘘をつけないくらいに

 自分のことを大事に思っている人は健全だ
 
 反対に 人には正直で自分に嘘ばかり付いている人も

 また健全だ
 
 自分に嘘をつき人にも嘘をつく
 
 この状態も ある意味健全だ
 
 しかし 人に正直で自分にも正直であり続けることは出来ない
 
 どこかで思想の矛盾がやってくる



人生の意味

 人生に意味を求めていなかったときの方が

 よっぽど意味のある人生だったことに気がつくことがある
 今では人生に意味ばかり求めて 

 毎日無意味な日々をすごしているような気がする



罪の記憶
 あなたのお父さんは
 たくさんの悪いことをした良い人でした
 
 その罪の意識は あなたに遺伝するのだろうか



知らぬ間に
 過剰に自分の何かを守るためにがつがつしたときは
 結局何も守れないでいた
 過剰にプライドを守ろうとした人は
 ことごとくプライドの価値を落とし

 過剰に家族を守ろうとした人は
 過保護になりすぎ家族の本質を見失った
 過剰に金を守ろうとした人は臆病になり
 得るものがなく金を失い

 過剰に隣人を守ろうとした人は
 余計なおせっかいといわれ隣人を失った

 過剰に権力を守ろうとした人は
 周りから誰もいなくなり一人になった

 何も失うものがない時 

 活発に動いていると必ず得るものがある
 親友であったり
 愛人であったり
 家族であったり
 お金であったり
 知らぬ間の権力であったり

骨折
 自分が挫折したのだ と思いたくない人々の現実逃避が蔓延し
 世の中はどんどんとおかしな方向に進む
 歳を取るほどにその傾向は 尚いっそうのこと甚だしい
 しかし肝要なことは
 骨を折るとその古傷は痛むけれども
 患部は前よりもより一層強靭に太くなるということだ
 勇気を出して自分の挫折を受け入れた人だけが
 手に入れることの出来る より一層図太い強靭さを


不純なストイック

 自分に都合の悪い真実を知るほどいやなものは無い
 だから人はストイックになり
 自らを鍛えて自分の都合の悪い真実をもみ消す



ネガティブな強さ
 怒り をのりきる強さ
 後悔 をのりきる強さ
 矛盾 を乗りきる強さ
 理不尽 を乗りきる強さ
 ネガティブな精神的強さ とは最も地味なものであるが
 最も評価されるものである



曇り のち 晴れ

 昔から社会的に そして自分でも正しいことをしているつもりなのに
 
 心のどこかで間違っているような錯覚に陥る
 
 間違ったことに対する責任の取り方が怖いわけではない
 
 どこかで 常に新しい観念を探しているためだ
 
 自分の正しい行動パターンでさえ常に疑っている
 
 だとしたらその錯覚は間違っていない
 
 正しい行為は いったん心を曇らせてはじめて正しい行為なのだろう



人生における有意義
 
 精神の解放
 
 そのために
 
 「故意に束縛される日々」
 
 を人生において
 
 「有意義」
 
 と呼ぶ


祭りの後

 駄目になるのは一瞬だと心と体で実感している人は
 
 現在 真面目に生きていることに

 「くすんだ充実感」を抱く




ホンモノ
 
 ニセモノのホンモノ
 
 になるくらいなら
 
 ホンモノのニセモノ
 
 でありたいものだ


一番赦せない奴

 結局いつのときも一番赦せない奴って言うのは自分である
 勘違い Only  One (オンリー ワン)

 たった一つとか たった一人とか そんなものそこいら
じゅうにある
 まったく同じものを見つけることのほうが難しい
 Only  One といわれ調子に乗るほど馬鹿げていることはない


不可避

 広大な宇宙や重量級の死を胎内に感じるとき
 あきらめに近い無力感と絶望感を感じる
 胸が苦しくなったときから
 生命は子供ではなくなる


自覚できないもの

 絶対に自覚のできないもの
 
 自覚できた時点で
 それは無ではない





戦争参加国のジレンマ

 戦争とは国が特定の地域と時間の中で殺人を許すこと


 戦争に参加している国では

 国内で殺人をするなという法律を作っても説得力がない




人にやさしく

 「人にやさしく」なんて教育はどこにいってしまったのか

 もっとも貧困国や戦争国でそんな甘いこといってたら死んでしまう

 平和な国だからはびこった甘っちょろい思想

 だけど これがないから 貧困や戦争が起きた国々

 思想、資源、金、欲のために争う

 ネットにより浮き彫りになった不平等だって?

 昔から異国の映画はあったはず

 遠い異国のぜいたくは 映画でも見せつけられていたのに

 「グローバル化のバグ」

 の責任はなぜ ネット社会だけに押しつけられたのだろうか?

 お偉いさんたちに 聞いてみたいものだ